増殖の秘密

平和と永続性」では、私たちの平和と成長を求める経済活動こそが戦争の原因であったということをみてきました。
では、なぜ、いつから私たちはそのような「負のスパイラル」に陥ったのでしょうか。

ここでは少し視点を変えて、宗教、主にキリスト教に注目してみましょう。

近代の文明はヨーロッパを発祥とし、急速な機械文明とともに発展してきました。
そこには、欧米人の思考様式に多大な影響があると思われるキリスト教の存在は無視できないでしょう。

あの衝撃的な「9.11テロ事件」を受け、中沢新一さんは「今までの体制は総崩れ、これからは何もかもがむきだしのリアルワールドで、思考されなければならない」と考え、「驚くほどの短期間に、3編の文章が書き上がられた」といいます。
そうして発刊されたのが、緑の資本論 (ちくま学芸文庫)です。

中沢さんは「国家の発祥によって、人間の世界は後戻り不可能な圧倒的非対称がセットになった」といいます。そしてその非対称から、「今やグローバリズムの名のもとに、地球上に圧倒的な支配力を広げようとしている」といいます。

「9.11」だけでなく、現在も各地で繰り返されるイスラム原理主義者(といわれる)による、時には自らの死をも省みないテロはなぜ行われるのでしょうか。
そこには経済的・政治的に圧倒的な非対称が存在する、といいます。

このような世界の荒廃化に立ち向かうために、キリスト教が選び取った戦略はまことにユニークなものであった。紀元1世紀のパレスチナで、イエスは圧倒的な非対称のもたらすアポリア(ギリシャ語で「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」の意味)に直面していた。ユダヤ教における唯一絶対の神と人間との間には、圧倒的な、いや絶対的な非対称の深淵が拡がっていた。そのために神と人間との間には、エコノミーの発生が起こりえない状況が生み出されていたのである。イエスはこれを荒廃ととらえた。絶対的な非対称の深淵に向かって、自らの死をサクリファイスすることによって、そこにひとつのエコノミーの回路を開こうとしたのである。人間からは死の贈与が贈り届けられ、神はそれに答えて愛の流動を贈る。キリスト教の生誕において重要なのは、贈与の問題であった。贈与の行為が世界を荒廃から救い出すという思想だ。

ところで興味深いことには、今日のテロの行為を背後で突き動かしているものも、それとよくにた贈与論的思考なのである。テロリストたちが苦しんでいるのは、経済的・政治的にこの圧倒的な非対称によって、健全なエコノミーが断たれてしまっている状況である。自分たちは一方的に奪われ、他方は一方的に奪うことによって、繁栄をとげている。この非対称を打ち破るために、彼らは自分と相手をもろともに死のサクリファイス、しかしどこにも贈り届けられることのない死の贈与に巻き込もうとする。健全なエコノミーの回路を開くため、というよりも、それは圧倒的な力によって守られた非対称をつくりだしている全機構を、もろともに破壊したいという欲望にかられておこなわれるのだ。

まったく僕もその通りだと思うのですが、いかがでしょうか。
そして、イエスの十字架が象徴するものとテロの行為とは「なにからなにまで鏡に映したような反転像」であるといいます。

  • イエスは自分が憎んでいるものたちの手にかかって一人で死ぬが、テロリストたちは自分が憎んでいるものたちに死をもたらそうとするが、同時に自分も死ぬ。
  • イエスは愛の流動が発生するエコノミーの回路を開こうとしているが、テロの行為は憎しみを永続させる。
  • など

つまり「一方は愛の流動を、一方は荒廃を積極的につくりだ」しているのです。
しかし、この二つの行為はまったく同じメッセージを伝えようとしています。

そのメッセージとは、圧倒的な非対称の破壊、である。(p30)

中沢さんはこの「圧倒的な非対称」は「人と動物」の間でも存在し、その象徴的な事件が狂牛病であった、といいます。

ここ最近、日本で起こったこと。
「口蹄疫あるいは鳥インフルエンザ」と「原発震災」です。
狂牛病のときも口蹄疫のときも大量の「死」が発生しました。それは人間から家畜である動物への一方的な「殺戮」でした。
「原発震災」とテロは違うように見えますが、原発はそもそもシューマッハーがいうように「限られた知識を巨大な規模で容赦なく応用」した結果であり、加えてその危機管理はまったくお粗末なもので、これは私たちの愚かさに気付かさせるために私たち自身に仕掛けた時限テロのようにも見えます。

しかし人間が非対称の非を悟り、人間と動物との間に対称性を回復していく努力をおこなう時にだけ、世界には再び交通と流動が取り戻されるだろう。このように語る知性は果たして無力なのだろうか。それとも現代に鍛え上げていくことの中から、世界を覆う圧倒的な非対称を内側から解体していく知恵が生まれるのだろうか。いずれにせよ、狂牛病とテロが、対称性の知性をもう一度私たちの中に呼び覚まそうとしていることだけは、たしかである。

キリスト教の中には「三位一体」と呼ばれる構造が潜んでいます。その三者が同心円で表され交わった姿を考えてみると、現在のあらゆる事象が見えてくる、と中沢さんはいいます。(三位一体モデル TRINITY

「父」というのは、「物事に一貫性や永続性や同一性を与える原理」のことをさします。ですから、例えば5分前のあなたが、5分後のあなたと同じ存在であることを保証するのが、「父」です。そして、この世界を、かくあるごとくあらしめている「父」は、「子」を生みます。それが、イエス・キリストという存在です。その際、「子」は「父」とまったく同じ本質を備えた、完全なコピー体として生まれ、神と人間との間をつなぐ媒介の働きをします。ところが最後にもうひとつ、「三位一体」の図を見るとわかるように、キリスト教では「霊=スピリット」という存在が、「三位一体」、つまり神の内部に組み込まれています。そして、現代の資本主義経済や宗教、芸術の問題などに取って、もっとも重大な存在となってくるのが、この「霊」なのです。

キリスト教の世界では、この「霊」が「降りかかり、湧き立ってくる霊につつまれるとき、人間は神に近づいていく」と考えられています。
ところがイスラム教では、同じ一神教であっても唯一の神・アッラーはこの世の全ての存在・事象(風や水、海にも)に直接現れてきます。つまりイスラムにとって「子」や「霊」の存在は許されるものではないのです。「もっとも重要なのは、唯一の神のアッラーは、増えたりしない、ということなのです。(三位一体モデルp.20)」

初期のキリスト教では、精霊は父から直接おりてくるものであり、「イエスはつねに霊に満たされ、霊に導かれていた(緑の資本論p.86)」おり、それは信者の間でもその考えは共有されていました。

4世紀頃には(中略)(「精霊に逆らって戦う人びと」によって)もしも「精霊」を神のものと定義すると、「子」との関係があやふやになってしまうというのだが、本当のところはシャーマニックな多神教の祭礼で人びとの上に降りおりてくる霊の動きときわめてよく似た霊的現象を、一神教の内部に持ち込んだりすると、神の単一性が壊れかねないという恐れがあったのだろう。何しろ、霊は躍動し、増殖し、拡大し、伝染していくものである。(緑の資本論p.87)

「父」が「子」を産出(生物界におこる種の保存の方法、つまり遺伝情報を正確に次世代に受け渡すのと同様に、「父」と「子」はロゴス=言葉を受け渡しているという意味)し、「精霊」がそこから発出(「産出」との違いは、同じものを伝えないこと。例えば商業交換の場合には、同じ価値を持ったものの交換がおこるの原則だが、発出の場合には、不等価値交換がおこる。)してくる。「三位一体論」を一神教的記号論のベースにしたキリスト教は、その構造によって、資本主義ときわめて親和的である。(中略)思考純粋の一神教の形態をタウヒードによって実現しようとしたイスラームは、その構造によって、資本主義とは異質な経済システムを生み出し、発達させていくことになるだろう。イスラームは「三位一体」の構造を神の単一性の中に持ち込んでしまったキリスト教を批判し続けたが、それは同時に資本主義とその内部で展開される経済すべて(そこには社会主義経済学も含まれる)に対する批判となる宿命を持っている。

こうして、キリスト教の内部に「増殖」がセットされた、といいます。そしてその増殖の機能によって、その後の奇跡的な勢力拡大がおこなわれたといいます。
ではその「増殖」が一体なぜ問題となるのでしょうか。

世界に対称性が保たれていた時代の神話では、貪欲さは人間の乗り越えるべき根源的な悪のひとつとして考えられていました。また、イスラム教もキリスト教とは別の成り立ちを持つ資本主義を発達させてきました。

イスラム教の世界では「お金がお金をつくる」という利殖行為は厳禁されました。一神教的な理解からすると、「貨幣」とは、神と現実の世界とを直接的に結びつける「記号」でしかなく、その「貨幣」の価値が増殖していくことは、神の本質が増殖していく、ということになってしまうからです。そのためイスラム教の原則では、銀行は利子をとれないことになります。(実際には「投資」による「利潤」は許されるという解釈に断ち、事業を成立させている)(三位一体モデルp.25-26)

ここで問題にされているのは「利子」です。
普段、この日本でもお金を借りる際には「利子」をつけて返済することが常識となっており、私たちはそのことに特に疑問を持たずに社会生活をおくっています。
まさしく「利子」とは「お金」が増殖する現象ですが、それのどこが問題なのでしょう。「利子」はお金を借りることによって私たちは何らかの利益を得るわけですから、そのお礼、とも言えますし、また貸し手への「迷惑」料といった解釈もできます。
しかし「お金」自体は実は何の実体があるものではなく、それ自体の生産性があるわけではありません。
例えば、ここに1本のキュウリがあるとします。畑から市場へ持ち込まれた段階で100円だったものが、次の日には80円になります。その次の日には50円となります。これはキュウリの価値がその鮮度とともに下がっているに他なりません。これは野菜のみならず、あらゆる「生産物」に大なり小なり起きるものです。つまり「商品価値は時間と共に減少する」のです。それは「諸行無常」ということです。(例外的に宝石類や美術品、骨董の類はありますが、だから投機の対象となるのです)
しかし、「100円」という貨幣は何日経とうが100円のままです。そこに貨幣のマジックがあるのです。豊かな社会に住む多くの人が、1本のキュウリと100円硬貨をどちらがいいか、と尋ねられたら硬貨の方を選択するのではないでしょうか。しかし言うまでもなく、人が生命を維持するために本当に必要なのはキュウリの方です。

つまり「増殖するお金=利子」は、私たちの生産物の流通という「実体経済」から一人歩きをし始め、際限なく巨大化する運命を持っている、ということです。

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社プラスアルファ文庫)では、この「腐敗しないお金」こそが現代のすべての問題の根源にある、としています。この中で、シルビオ・ゲゼルが書いた「ロビンソン・クルーソー物語」が紹介されています。ご承知の通り、クルーソーは南海の孤島でたったひとりで生活を始めたわけですから、そこに「お金」は存在しません。そこにひとりの漂着者が現れ・・・と物語は始まります。こちらに漫画で解りやすく載っていますのでご参考ください

さて、再びキリスト教世界で何が起こってきたか、をみていきましょう。

ところがキリスト教の世界では、神についての考えかたのなかに、最初から増殖の原理がセットとしてありました。そのおかげで、中世のころ、12世紀くらいからは、商人も利子を取ってよろしいということになったのです。キリスト教も一神教ですから、やはりそれまでは、利子を取ることについて、何となく内心じくじたるものがありました。そもそも、商人のことを軽蔑していた部分もあったのです。ところが、商人がだんだん力をつけてくると、次第に彼らはお金を貸して増やしたい、という欲望を持つようになってきました。
それまで商人は「地獄に落ちる」と決まっていました。(中略)利子をとると地獄に落ちるぞ、なんて商人を差別するのは、キリスト教の考えとはそりが合わないんじゃないか?という方向へ、だんだん変化していくようになってきたのです。お金を貸したっていいんじゃないの?利子をとって何が悪いの?と誰かが言い出して、そのうちドドーッとそちらの方に流れていってしまった。実際、そうした現象がローマで起こっています。(三位一体モデルp.27-29)

こうしてシューマッハーのいう「貪欲や嫉妬心のような人間の悪を意識的に増長させ」ることが始まったのです。

さらに、資本主義にとって、より都合のいい「煉獄」というものが発明されました。(中略)いったん地獄に落ちた人が、この煉獄の山を苦労してのぼって、高い山の頂きにたどり着くと、上から天使がやってきて、天国に迎え上げてくれますよ、と、こんなことを言い出したのです。これはおそらく商人のために考えだされたものだったのでしょう。動物の殺生などをしていた職人たちも、その恩恵にあずかりました。それまで彼らには、死後、まったく救済がなかったのですが、煉獄があれば救済されてしまうのです。だから、生前、極悪非道の金貸し商人だった人が、死後、煉獄の山を苦労して登り、天国へ行った、なんて話まででっち上げられるようになりました。そうすると、すっかり「なーんだ、いいのか」ということになったのです。
こうした経緯を経て、西ヨーロッパの資本主義は動き始めました。ガシャン、ガシャンとギアが噛みだしたのが、13世紀から14世紀。それから、16、17、18世紀を経て、19世紀にフル稼動に入ります。(三位一体モデルp.30-32)

借金の本質とは、「増やして返す」ことです。このことをよくよく考えてみると、増やして返せる当てがなければ、借金はすべきではない、ことになります。
何だ、当たり前のことじゃないかと思われるでしょうが、借金をするときというのはお金が足りないときです。高度経済成長の時代であれば、「借金も資本のうち」と言われたくらいですから、日本の社会の経済的許容力が十分に大きく「当て」もあったのでしょうが、現在ではそうではありません。つまり、借金をすることでますます貧しくなってしまうことが多々起きてくる、のです。
それは国家の借金であっても例外ではないのです。

現代の銀行制度は、貨幣を無から創り出す。
その手口は、おそらく、これまで発明されたなかでもっとも驚くべき詐術と言えよう。
銀行は、不正によってつくられ、罪のうちに生まれた。

銀行家は世界をその手に握っている。
銀行家から世界を取り戻しても、貨幣を生み出す力は彼らの元に残されており、ペンをちょっと走らせるだけで、それを買い戻すに十分な貨幣を創造できるのだ。

その絶大な力を彼らから取り上げよう。
そうすれば鉱山のような莫大な富は消え失せる。
それは消え失せるべきなのだ。
そうすれば、この世界はより良く、より幸せになるであろう。

しかし、もし諸君が銀行家の奴隷であり続けることを望むなら、銀行家にこのまま貨幣の創造と信用取引を支配させておけばよい。

ジョシア・スタンプ卿 元イングランド銀行総裁(1928~1941)

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